瓦篠が主だった江戸時代のごみ

2011-10-24

日本で、都市の生活ごみの処理が問題になってきたのは、江戸(現在の東京都)に徳川幕府が開かれて以後のことであろう。徳川家斉の文政年間(一八一八〜一八二九年)に、江戸の根津門前町にあった貸長屋には、二七戸の長屋に井戸が一か所と、共同便所が三か所、芥溜が一か所あったと記されている。芥溜が、いつごろからごみ溜、あるいはごみ箱と呼ばれるようになったかははっきりしないが、いずれにせよ、家庭や商家の台所から出るごみを一時的に保管するために設けられたごみ箱で、おそらく蓋の付いた木製の箱だったのではなかろうか。徳川幕府が開かれてから後の江戸の町では、急に武士や町民の数が増えてきて、ごみの始末に困った者が、川筋や近くの空き地にごみを捨てるようになってきたので、幕府は一八五五(明暦元)年に川筋にごみを捨てることを禁止し、ごみは船に積んで永代島(現在の江東区)へ運んで捨てるように定めた。徳川家康が、駿府(駿河の国の国府、現在の静岡市)から江戸へ移ってきたのは、一五九〇(天正十八)年であるから、永代島にごみ捨場が定められたのは、江戸が家康の城下町になってから六〇年以上経過した後のことである。永代島は、隅田川の上流から流れてきた土砂が河口に堆積してできた砂州であるが、江戸の人たちが家庭や商家から出るごみを直接永代島へ運ぶことは困難であったので、共同でごみ運びを専門にしている請負人(芥取請負人)に料金を払って運んだらしい。料金は町が支払ったとあるから、まさに今日のごみ収集の原型と言えよう。